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佐名伝遺跡/おいの池

[2019年5月15日]

佐名伝(さなて)遺跡

国道370号線の敷設工事中に、佐名伝遺跡で出土した土器は、五條の郷土史家だった堤昭二氏が発見したものです。それらの中には、遠くはなれた北日本の地域のデザインをとり入れた4000年前の縄文土器や、2000年前の弥生時代の土器もたくさん含まれています(これらの土器は現在、市立五條文化博物館で保管されています)。
平成15年(2003年)に行われた奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査では、6世紀後半頃のカマドのある竪穴住居がみつかっています。吉野でも数少ない貴重な発見例です。

佐名伝遺跡の現状の写真

佐名伝遺跡の現状

おいの池

佐名伝の集落に近い、吉野川の川辺に残る「おいの池(岩のくぼみにできた水溜り)」に、ひとつの言い伝えがあります。

むかし、佐名伝に住んでいた「おいの」という娘さんが、南都(今の奈良市付近)の興福寺から吉野に修行にやってきた若い坊さんに、恋をしました。二人は仲むつまじくなりましたが、その坊さんは、娘の恋心を知りながらも、修行の身と言い残して、そのまま興福寺へと帰って行きました。失意のうちに娘は、吉野川の川岸にあった池に身投げしてしまったのです。後日、興福寺に帰った坊さんは、お寺の近くにある猿沢池で、見慣れた笠が浮かんでいるのをみつけました。おいのがかぶっていた笠でした。その後、こういう話が伝わっています。おいのが身投げした池と、興福寺の猿沢池は、池の底でつながっているのだ、おいのの心が笠にのり移って、水底をとおってはるか遠くの猿沢池にたどり着いたのだ、と。

この池は、「おいの池」と呼ばれて、今も吉野川の川辺に残っていましたが、平成23(2011)年の紀ノ川河川改修工事により、残念ながら姿を消してしまいました。(『大淀町史』の「おいの池」を参考にしました)。
町役場に残されている明治時代の地籍図をみると、佐名伝には「北堂」「堂ノ前」といった、寺院にかかわる地名が残されています。このあたりの畑を歩いていると、鎌倉時代の土器のかけらが落ちていることもあります。
記録によると鎌倉時代頃、佐名伝地区を代表する寺院があったようです。その寺院の名前は定かではありませんが、付近は興福寺の所領となっています。おいの池の伝承は、すべてが史実だとはいえませんが、佐名伝地区と興福寺とが関係をもった頃の歴史背景をもとに、佐名伝に住んだ人々が想像たくましく生み出したもの、といえます。

おいの池の写真

おいの池

アクセス

大淀町佐名伝。おいの池の跡地は現在、河川敷公園として整備中です。国道370号線沿いに立つ道標が目印です。

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