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保久良(ほくら)古墳

[2017年10月2日]

保久良古墳

大淀町今木。近鉄・JR吉野口駅から国道309号線沿いに今木方面へ徒歩20分。国道脇に道標があります。古墳の南側にお住まいの東山さんが、ボランティアガイドをしておられます。関連ビデオも見せていただけますのでご連絡ください。

保久良古墳は、今木地区の小字「津角山」にあります。地元では、建王の殯(もがり)塚として知られています。
建王(タケルオウ・タケルノミコ 649-658)は、天智天皇(626-672)と越智娘の皇子、皇極(斉明)天皇(594-661)の皇孫で、生まれつき声が出せず、8歳で亡くなったと伝えます。建王を愛した女帝斉明はその晩年、建王を失った悲しみを歌にし、自らの墓に彼を合葬するようにと言い残しました(斉明紀4年条)。

いまきなる おむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ

この歌に登場する「イマキ」が、当町今木地区の地名の由来になっています。
その後、斉明天皇の陵墓は「小市(越智)」に造られました(同6年条)。建王がそこへ合葬されたのかどうかは記録になく不明ですが、そのなきがらを置いた「殯(もがりの場)」が「今城谷上」に起こされたと伝えます(同4年条)。
江戸時代になり、享保21年(1736)開板の『大和志』陵墓の項に「建王殯塚(今曰法具良塚)」と記され、明治27年(1894)の陵墓治定にともない、斎藤美澄の報告(大正3年に『大和志料』下巻として公刊)で「建弭王殯塚」に比定されたのが、現在の保久良古墳です。
この古墳は、南向きに開いた横穴式石室をもつ直径約15m、高さ約4mの円墳で、石室には花崗閃緑岩が用いられています。墳丘西側から南側裾部にかけて、外護列石(墳丘の土留めの役割を果たす積石)がみつかっています。
石室は全長約9.5m、奥の部屋(玄室)と通路部分(羨道)からなります。玄室は、長さ約3.5m、幅1.3~1.5m、高さ約1.8m以上で右側(西)に小ぶりな袖部を有しています。羨道は、長さ約6m、幅1~1.2m、高さ約0.8m以上です。羨道が玄室や墳丘規模に比べて長いのが特徴です。
石室内からは吉野・紀ノ川流域に産する結晶片岩の板石片が多数みつかり、組合式石棺が納められていた可能性があります。また、石室内からは装身具の一部とみられる琥珀玉もみつかっています。
この古墳は、巨勢・イマキ地域(石室)、吉野・紀ノ川流域(石棺)の古墳文化の特徴をあわせもつ7世紀前半の横穴式石室墳として、また、江戸時代中期以降、地元今木地域の人々が飛鳥時代の王族の殯塚伝承を伝えてきた古墳としても貴重です。平成24(2012)年7月26日、町指定の文化財となりました。

保久良古墳全景の写真

保久良古墳全景

みつかった墳丘の列石の一部の写真

みつかった墳丘の列石の一部

みつかった琥珀玉の写真

みつかった琥珀玉

タケルくん(建王の想像イラスト)の写真

タケルくん(建王の想像イラスト)

動画での解説を配信しています

動画での解説は、YouTubeのページ(別ウインドウで開く)をご覧ください。

保久良(ほくら)古墳へのアクセス

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