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吉野熊野国立公園の父・岸田日出男

[2018年4月5日]

大淀町では、2016年度より「吉野熊野国立公園の父」と呼ばれた郷土ゆかりの偉人・岸田日出男(1890-1959)の遺した資料を保存・活用するプロジェクトを推進しています。

ここではその概要を紹介します。


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「岸田日出男の遺したもの ダイジェスト版」(別ウインドウで開く)


個別の映像をご覧いただくには、3.岸田日出男資料・戦前の映画フィルムをご覧ください。


1.岸田日出男(きしだ ひでお)ってどんなひと?

岸田日出男の画像

岸田日出男(1890-1959)


岸田日出男(英夫)は、明治23年(1890)11月30日、教員であった父・楢造の長男として、旧高見村木津(現東吉野村木津)で生まれました。その後、大淀町北六田に移住。明治41年(1908)に奈良県立農林学校(大淀町下渕)の林科を卒業後、吉野郡役所(後に奈良県)の技手(技師)として職を得ました。

大正5年(1916)4月、吉野山で東京帝国大学の白井光太郎(しらい みつたろう)博士の講演「吉野名山の保護について」を聴き、吉野群山の山岳渓谷や森林の美しさのもつ価値に気づいたと、昭和11年(1936)の自著『吉野群山』に記しています。

当時、紀伊半島や奥吉野の自然が、森林開発やダム建設による電源開発によって、急速に失われようとしていました。彼は、その豊かな自然を保護するため、吉野群山を「国立公園」にしたいと考えるようになり、多くの仲間たちとともに、吉野郡の山中を隅々までくまなく歩き、その実態を調べました。やがて、幾多の苦労を経て「吉野熊野国立公園」が指定を受けたのは、昭和11年(1936)2月1日のことでした。彼は、地元吉野で国立公園指定運動の要として活躍したことから「吉野群山の主」「吉野熊野国立公園の父」とも呼ばれています。

昭和21年(1946)の退職後も、彼は紀伊半島に押し寄せる開発と観光、自然保護との調整に東西奔走し、失われていく山村の民俗やくらし、伝承を克明に聞き取り、北六田の自宅に膨大な記録と研究資料を遺しました。

昭和34年(1959)4月6日、道半ばの67歳で急死。昭和36年(1961)には、その業績を讃える顕彰碑が、山上ヶ岳(天川村)近くの大峯奥駈道沿いに建てられています。

【参考文献】

  • 岸田日出男(笹谷良造と共著) 『吉野群山』 1936年
  • 奈良新聞社編「岸田日出男」 『大和奈良県近代の歴史』 1979年

 

関連地図(紀伊半島と吉野・熊野)


2.岸田日出男の遺したもの

大淀町北六田の岸田家には、既に失われてしまった戦前・戦後の生活の記憶や、広大な紀伊半島を舞台にした人と自然とのかかわりが、映画フィルム、写真、聞き取り記録類で克明に遺されていました。ダンボール箱にして60箱をこえるこれらの資料については、2018年1月、岸田家から大淀町に寄贈され、現在のところおおよそ3,200件の資料リストができています(2018年3月末時点)。これらの資料からは、国立公園の仕事にとどまらない、岸田日出男の勤勉さ、博学さと先見性がうかがえます。その内容を分類すると、以下のようになります。

岸田日出男資料の分類

  • 刊行物類(雑誌、書籍、新聞、地図、パンフレット、絵はがき等)※論文抜刷、合冊製本も含む。
  • 資史料類(映画フィルム、各種写真とガラス乾板、古文書、公文書、標本等)
  • 記録類(書簡類、自筆原稿、自筆資料、スケッチ、ノート、メモ等)


資料の年代は、江戸時代にさかのぼる古文書を除くと、明治38年(1905)の日出男の農林学校時代のノートから、亡くなる直前に書かれた昭和34年(1959)3月の自筆原稿までの54年間に収まります。

彼の没後は、子息の文男(1919-2015)が資料の保存・管理をしていました。ここでは、整理作業の折、とくに目のついた資料として以下のものをあげておきます。


刊行物類

  • 岸田日出男遺文集(岸田家永久保存版) 
  • 岸田日出男(笹谷良造と共著) 『吉野群山』 (1936年刊行)
  • 岸田日出男 『吉野黒滝林業史』 (1957年刊行)
  • 岸田日出男 『日本狼物語(1964年の復刻版)』 (2014年刊行)

資史料類

  • 吉野熊野国立公園関係文書
  • 大和山岳会および吉野熊野文化協会関係文書
  • 映画フィルム(1922年・1923年・1937年)
  • 古写真(ガラス乾板、戦前の吉野・熊野地域の風景写真)
  • 古文書(前鬼・小仲坊「峯中記」ほか、吉野郡内各地の古文書の写し)
  • ニホンオオカミ標本(上顎骨・1936年上北山村天ヶ瀬採集)、植物標本(さく葉資料)
  • 松浦武四郎関係資料

記録類

  • 農林学校時代の自筆ノート
  • 後南朝関係の調査原稿
  • 龍門騒動(1818年)関係の聞き取り記録
  • スケッチ(オオヤマレンゲほか高山植物)
  • 吉野郡内各地の民俗聞き取り記録


3.岸田日出男資料・戦前の映画フィルム

2016年12月、岸田日出男が暮らした奈良県吉野郡大淀町北六田の自宅から、多くの歴史資料とともに古びた映画フィルム4巻が発見されました。そのフィルムに遺されていたのは、今からおおよそ100年前にさかのぼる吉野・熊野の原風景でした。最古のものは、大正11年(1922)8月に撮影された、大峯奥駈道や大台ケ原の映像であることが判明しました。現在のところ、奈良県内を撮影した最古の映像となる可能性があります。

大淀町ではこれらのフィルムを保存・活用するプロジェクトを実施しています。

以下より、デジタル化した動画をご覧いただけます。

「岸田日出男の遺したもの ダイジェスト版」(別ウインドウで開く)


吉野群峯(1922年)

吉野群峯 第2巻(八経ヶ岳~前鬼 大峯奥駈道)

吉野群峯 第3巻(大台ケ原~川上村大滝)


大正11年(1922)8月、内務省衛生局の撮影隊は大峯山系・大台ケ原の映像をカメラにおさめました。岸田も吉野郡役所の職員として、撮影隊に同行していました。

それを編集したサイレント映画「吉野群峯(全3巻)」は、吉野地域を映像化した現存最古の作品です。今回みつかったのは全3巻のうち第2巻(八経ヶ岳~前鬼 大峯奥駈道)と第3巻(大台ケ原~川上村大滝)です。

「岸田日出男の遺したもの 吉野群峯・第2巻(1922年)」(別ウインドウで開く):15分44秒

「岸田日出男の遺したもの 吉野群峯・第3巻(1922年)」(別ウインドウで開く):8分48秒


瀞八丁実写(1923年)


大正12年(1923)の8月、東京の撮影技師が吉野郡十津川村の依頼をうけて撮影したサイレント映像の一部です。岸田もこの撮影隊に同行していました。

その映像には、奈良・三重・和歌山県の三県にまたがる瀞峡(特別名勝・天然記念物の瀞八丁)が登場します。そそり立つ岸壁や川下りの舟、いかだ流しのようすなど、おおよそ百年前の瀞峡が記録された貴重な映像です。

「岸田日出男の遺したもの 瀞八丁実写(1923年)」(別ウインドウで開く):7分47秒


熊野路(1937年)


昭和12年(1937)の作品です。鉄道省の企画で製作され、J・O・スタヂオが撮影と編集を、日本ビクター管弦楽団が音楽を担当しています。

フィルム撮影は、吉野熊野国立公園が指定をうけた後、昭和11年から12年にかけておこなわれたようです。

映像は、和歌山県南端の串本から始まり、那智・新宮・瀞峡・本宮をへて三重県熊野市にいたります。南紀熊野の名所や人々の暮らしが、ナレーションにあわせて紹介されています。

「岸田日出男の遺したもの 熊野路(1937年)」(別ウインドウで開く):12分31秒


【お願い】古い映画フィルムについて

大淀町では、戦前の映画フィルムや、戦後(約50年以上前)の古い映画フィルムが、奈良県内にどのくらい残っているのかを調べています。つきましては、みなさまの情報をお寄せいただければ幸いです(年代のわからないフィルムでもかまいません)。

古い映画フィルムは、経年による劣化が懸念されます。また、そのほとんどは可燃性の材料で作られているため、放置しておくと発火する恐れがあります。できるだけ多くの方々に、古い映画フィルムのもつ価値と、所在調査の重要性を知っていただきたくためにも、みなさんのご協力をお願いします。






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